薩た峠で不慮の死を遂げた人を供養するお寺
川越の人足は興津側で36人が常備されており、大通行があると250人以上動員された。
足利氏、今川氏、武田氏の古戦場跡
浦安橋西端にあり、供養塔と記されている。
一説に筑前(福岡県)より宗像神社の興津宮を勧請したといわれており、それが地名の由来となった。
身延山へ続く参詣路、駿河と甲斐を結ぶ交易路の起点。
江戸から41里
興津宿2本陣のうちの一つ。市川新左衛門が勤めていた。
興津宿2本陣のうちの一つ。手塚十右衛門が勤めていた。
興津宿脇本陣、各界著名人より愛された。昭和天皇・皇后陛下が昭和32年宿泊。現在宿泊はできない
東北の蝦夷に備え興津に関所が設けられ、その傍らに仏堂が建てられたのが清見寺の始めと伝えられている。
清見関跡の碑石が残る。
大正天皇が皇太子の頃、明治2年と23年に2度海水浴に来られた事を記念したもの。
新見潟公園にある歌碑
大正天皇が皇太子の頃、明治2年と23年に2度海水浴に来られた事を記念したもの。
名物膏薬を売っていた。遠方からわざわざ買いに来る人々もおり、繁盛した。
公爵西園寺公望の旧居。大正8年12月に建築された。
長州出身、明治維新時、外務、商務、内務大臣を務め、明治、大正、昭和にかけ政界に君臨した。
国道1号線と旧東海道の分かれ目にある地蔵尊。
興津川氾濫等で東光寺に泊まる人の為に作られた門がある。門戸が格子造りになっているのが珍しい。
馬を交通や運搬に使った事への感謝を表して祀られている。
かつての松並木から人骨が出た。東海道で倒れた旅人と推察され、祈念碑を建てた。
秋葉山への道の入り口
昔の掲示板。法度や掟を知らしめるために立てた札、高札の跡
江戸から42里
江尻宿東端の出入り口。道路がくの字に曲がり外から宿内が見渡せないようになっている。