西口ロータリーから移されたモニュメント
徳川信康の遺髪が納められる寺。徳川家は代々信康の霊を弔い続け、三代家光により葵の御紋が使われた。
昭和31年江尻小学校教諭、堀田哲爾氏が少年サッカーチームを組織した。
永禄12年、信玄の命により創建。関ヶ原の後廃城となった。
橋の名前は、巴川に住む河童(かっぱ)の伝説に由来し、かっぱ橋とも言われている。
徳川時代、河川交通の重要な場所であった。この付近に船御高札が建てられた。
巴川修復の時、5つの石が掘出された。稚児橋の河童伝説に因み名づけられた。
浄瑠璃、朝顔日記の主人公、深雪の墓がある。7月の朝顔祭りでは出来映えを競う。
江尻宿西の入口
旧街道の道標。旧東海道と志三づ道が合流するポイントにある火袋つきの石造道標。
東海道から1.5キロ程離れた寺。清水次郎長の墓があり、この近辺には生家等ゆかりあるものが多い。
清水次郎長が子分の森の石松の恨みを晴らすため、博徒吉兵衛を討った場所。
ひどい咳に病む子供達がこの社にお祈りするとたちまち治ると伝えられる。
安政7年造立。久能寺に至る有度山麗の道
此所は鎌倉以前から地蔵原と言われ、天正10年徳川家康は江尻城主穴山梅雪とここで会い味方にした。
上原村鎮守の十七夜宮と隠元の黄檗宗千手寺。万福寺に伝わる中国精進料理、普茶料理が有名
江戸から43里
日本武尊を祭る。尊が東征の際、賊が草に放った火を薙ぎ払い難を逃れた地といわれる。
昭和9年、沢村栄治とベーブルースが対戦。日本職業野球はこれで誕生した。
昭和37年国鉄が操車場を建設、栗原地区で分断されたのを残念に思い建立。
江戸から44里
奈良、平安時代の東海道古道跡。
創建明治32年、西南戦争・日清・日露・第一次・第二次世界大戦などの英霊を祀っている。
鎌倉幕府による追討で梶原景時は清見関で襲撃に遭い狐ヶ崎で全員が戦死、遺言により磨墨を埋葬した
寛保4念再建。祭神は武甕槌命、経津主命、大山祗命を祀る。武甕槌命は軍神であった。
今川氏輝の命により、家臣が建てた寺。京都の清水寺に似ているところからこの名がつけられた
商売繁盛、家内繁栄を祈願するえびす講が催される。境内と門前には縁起物の露天が連なる。
ここが駿府からの久能街道起点である。
德川家康が竹千代時代、 この寺の開山の知短上人に手習いを学んだという。
駿河3刹の一つで山号金剛山寺、江戸時代に、朝鮮、琉球施設の宿泊所として使われた。
下本陣は小倉家、脇本陣は平尾家
上本陣は望月家、脇本陣は松崎家
慶長14年駿府を宿場と定め、伝馬の機関を設けたために伝馬町となった。