この付近に浜松城正門があり、常に武器を備え出入りが厳しく取り締まられていた。
三方原の合戦後、徳川家康が休む際に鎧を松にかけた。これより鎧掛松と呼ばれている。
永禄11年(1568)徳川家康が引馬城を改築して浜松城と改めた。現在は浜松城公園として整備されている
大名・公家・役人などの宿泊のため宿場に置かれた旅館。浜松宿には6箇所の本陣があった。
天正5年、浜松城内の守護神を合祀し松尾神社と改名。白ひげ大神を主神とし奉斎する浜松の創社。
両社ともに徳川秀忠の産土神とされたことから、子守り、子育ての神として人々の崇敬を集めている。
比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鎧を着て橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がついた。
ここは江戸より66里。昔は土手のある松並木が続いていた。
奥州平泉の藤原秀衡が愛妾への感謝を込めて薬師堂を建てたと言われている。
村々に法令やおふれを周知させるため、高札を揚げた場所
江戸時代庶民の信仰を集めた馬頭観音を奉っている。
若林二つ御堂の横に設置されている記念碑
秀衛の側室のなきがらを埋めた場所に秀衛が植えた松と伝えられる。
山城国、石清水八幡宮より奉迎された神社
村々に法令やおふれを周知させるため、高札えお揚げた場所
旧名、諏訪名神、慶安元年10月24日幕府より三石を下賜される。
熊野神社の神宮が諸国遍歴の際ここで祭神を奉祀したのがはじまりと伝えられる。
村々に法令やおふれを周知させるため、高札えお揚げた場所
当時はこの領界石がある所までが「浜松領」だった。「従是東浜松領」と刻まれている。
小沢渡町の氏神六所神社入り口に、音羽の松と「名勝音羽乃松」の碑がある。
紀州熊野本宮の神主さんが諸国行脚中にここにて足を止め奉祀した。
建暦2年、浜名湖中における小島神明鳥に鎮祀。永徳年間ここに移転、徳川幕府より御朱印五石を排受した。
日本橋より67里の一里塚
村々に法令やおふれを周知させるため、高札えお揚げた場所
京都に各地の愛宕神社の総本社があり防災の神として信仰を集めている。ここの入口脇に常夜灯が建っている。
永享12年伏見稲荷より勧請したと言われている。慶安元年、時の幕府より御朱印五石が与えられた。
かつてここに馬郡観音堂が建ち、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。引佐細江の観世音と呼ばれていた。
本徳寺時代の「泉光坊」が改称されて東本徳寺となった。
永徳元年開創の日蓮宗寺院。江戸時代の大泥棒日本左衛門の伝説が残る寺でもある。
正面の社殿に前には、狛犬ではなく、狛鹿が迎えてくれる。