明治41年までは悪王子神社。社叢は「悪王子の森」と呼ばれていた。
東海道を西へ向かう際、進路が北を向く関係で富士山が左手に見える名勝左富士。
源平争乱の富士川の合戦の場所
祭神は菅原道真で学問の神。
日蓮宗の寺院
寛永16(1639)年、高波を受けた元吉原は中吉原へ所替えした。
富士市に夏の訪れを告げる吉原祇園祭りは6月の第2土曜日と日曜日の2日間に渡って行われる。
村境にいて村に災厄が入ってくるのを防ぐまた子供達の守り神でもあるともいわれている。
京、大坂と江戸の間を月に三度往復していた定期飛脚の利便をはかるため架けられたことに由来。
吉原宿と次の蒲原宿の中間の休息所で多くの茶屋が立ち並んでいた所。
ここから富士の雪を眺めると鶴が舞っているような所があり、鶴芝と呼ばれた。
江戸から35里
かつての高垣村の高札場。
『東海道名所図会』に「富士川右の山肌にあり、巌上に松栢生ひ茂れり…」と紹介された水神の森。
富士川水運の父「角倉了以の紀功碑」と「渡船跡を示す常夜灯」がある。
江戸時代後期に3軒あった内の現在まで残る1軒。1854年安政の地震後に再建された国の有形登録文化財。
江戸から37里
源義経が東に下る時に菩提所の涌き水を使って手紙を書いたといわれる。
武田信玄の猛攻にあって敗れた蒲浦藩主の墓。
江戸から38里
蒲原宿の治安と管理の為、夕刻には閉鎖し、朝方には解放した。現在は跡が残るのみ。
江戸時代に名主として、蒲原宿を取り仕切る問屋を務めていた。